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大正2年7月
旧東京市麻布区(現港区)に於いて配電器具の製造業務を白川彌助が個人創業し、その後旧芝区に移転。
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昭和20年5月
戦災により工場施設を焼失し、休業状態となる。
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昭和23年11月
資本金25万円にて合資会社に組織変更し、白川一郎が代表社員に就任。目黒区にて業務を再開する。
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昭和29年12月
資本金300万円として、株式会社に組織変更。
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昭和37年2月
通産省の指定を受け、関連会社21社と共に茨城県総和町に「配電盤茨城団地協同組合」を結成した。これにより機器製品の大型化に対応出来るスペースを持つ、工場設備の建設に着手した。
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昭和39年8月
団地内に大型組立設備工場が完成し生産を開始すると共に、近隣地区に社宅および独身寮を建設した。又共同施設として、組合事務所・診療棟・食堂・資材マーケット・野球場・テニスコート・水泳プール・バス車庫等も完工した。
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昭和44年7月
鈑金工程からの一貫生産を図る為、鈑金工場を新築し各種新鋭工作機械を設置し、稼働を開始した。尚別に団地協同鈑金工場として「ハイデン工業株式会社」も設立竣工した。
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昭和46年4月
資本金1,000万円に増資。
沖縄県那覇市の沖縄総業株式会社と、同地での代理店契約を結び業務を開始した。
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昭和53年3月
受注の増大に伴い、キュービクル等の大型製品専門の組立工場を増設。
面積510平米、高さ8m強と採光度を高め、天井走行クレーンを設置し製品の移動・運搬などの省力化を図った。
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昭和54年10月
白川一郎が取締役会長に、白川節太郎が取締役社長に夫々就任し、他の役員の異動も行った。
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昭和55年12月
目黒区の木造2階建て本社・工場を建て替え、鉄筋4階建て、延べ1,548平米の新社屋が竣工した。
1階は東京工場および検査立会場、2階は車庫、3階は本社事務・応接室、4階は会議室・食堂・役員室・サウナ・社宅等の施設を完備した。
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昭和56年4月
仙台市蒲町字北谷4-1、株式会社若生電機製作所内に、東北営業所を設置した。
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昭和57年2月
広島市東区中山西2-5-15に広島営業所を新設し、業務を開始した。
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昭和57年4月
鈑金工場を建て替え、天井走行クレーンを設置した。総面積990米。
尚旧鈑金工場は車庫に、旧倉庫は事務室・設計室に、又旧事務室は会議室兼食堂に、夫々模様替えを行った。
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昭和58年7月
当社技術部が考案発売した[保安装置メンテレスSMR-105]が「昭和58年度電設工業展労働安全研究所所長賞」を受賞した。
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昭和59年4月
白川一郎会長は、勲五等に叙され瑞宝章を授与された。
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昭和61年10月
複雑多様化する情報化社会に対応する為、従来の白川電機本社、鈑金の総和白川工業、九州の白川電機熊本製作所、資産管理の株式会社シラカワの4社のグループ化を図り、資本および組織を一体化する整備を行った。
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昭和61年10月
設計部内に自動作図機「MECCOM70MX/3000Ⅱ」を導入し、作図効率の向上を図った。
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昭和62年2月
茨城工場事務棟老朽化の為、旧鈑金工場棟内に工事事務室・設計室を新設し、各棟の屋根及びその他の補修工事を行った。
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昭和62年4月
白川一郎会長が、配電盤茨城団地協同組合の二代目理事に就任した。
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昭和62年5月
総和白川工業が事務室・社員食堂を増設した。
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平成2年9月
茨城工場内の事務室、設計室、食堂、キュービクル工場を新設し、併せて社員寮及び独身寮を新設した。
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平成4年9月
中国天津市に天津市礦山電器厰との合併で、配電盤の設計を行う「天津日津配電盤技術設計有限公司」を設立。
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平成5年11月
目黒税務署より、優良申告法人の表敬状を受ける。
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平成6年10月
メンテナンス部門を独立し、「株式会社メンテ白川」を設立。
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平成7年10月
製造部門の茨城工場を独立し、「白川電機株式会社」を設立。
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平成10年10月
独立した鈑金部門・メンテ部門・製造部門の4部門を、本社部門に統一する。
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平成11年4月
東京都登録電気工事業者登録。
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平成12年10月
白川節太郎が取締役会長に白川龍彌が取締役社長に就任した。
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平成14年8月
一般社団法人日本配電制御システム工業会の優良工場の認定取得
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平成15年3月
マネジメントシステム、IS09001認証取得。(認証取得場所:本社・茨城工場)
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平成17年8月
東京都一般建設業の許可(電気工事業)を取得。
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平成25年7月
会社設立100周年記念式典を催行。
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平成25年12月
白川尚樹が社長に就任した。